型枠の歴史

型枠の歴史(長いですが。興味のある方は、是非読んでみて下さい) 1/10


 鉄筋コンクリート造りの技術は、嘉永3年(1850)にフランス人のジョゼフ・モニエ(joseph Monier)によって発明された。安政4年(1857)には特許を取得する。しかし、一般の建築物に利用されるようになるのは明治13年(1880)以降のこと。その技術はイギリスを経由して日本にも渡来するが、わが国で初めて型枠によるコンクリート建造物が造られたのは明治32年ごろとされている。その後、主流となったのは土木・建築の両部門とも石造りや煉瓦造りであり、全面的な鉄筋コンクリート造りの普及には、なお時間を要することになる。
 しかし、おそらく石や煉瓦の結合部、それに基礎や土台部分などに、初期の鉄筋コンクリートが使用されたはずであり、そこには必ず型枠工事が存在したはずだ。明治14年当時の堰板(せきいた)は分厚く、50㎜から90㎜だった。ちょうどそのころ、明治45年5月に鉄筋コンクリート造りの傑作と称される高島屋京都店(竹中工務店施工)が竣工している。その後、関東大震災によって鉄筋コンクリート造りの優秀性は、煉瓦造りや石造りとの比較で実証され、耐震・耐火・耐風建築といえば、鉄筋コンクリート造りになっていく。それ以降、鉄筋工事と型枠工事はコンクリート工事の要となったのである。最初のころの「型枠」は、その建物と同じ床面積の木造家屋と同じくらいの量の木材を使用した。主として木造大工や鳶・土工で行われ、予算に占める型枠工事費の割合は大きかったと推測される。その後の、木材費の削減策と工事の生産性が問題になることに対応して、大正6年(1917)に清水組(現、清水建設(株))の小島弥三久工事長によって開発された「木製定尺パネル」(かまち式パネル)が使用されることに伴い、建築工事の型枠工事比率が一気に増加することになった。以来同パネルは、コンパネが普及するようになる昭和40年(1965)代まで半世紀にわたって使用された。これは、同パネルの優秀性を示す歴史的事実であった。

 木製パネルが普及すると共に多様な鋼製の支保工や緊結材が開発されるようになり、当初は三寸角の木バタを針金で締め付けるものだったが、その後ネジ式のG型金具が開発された。さらに、より迅速性の追求により考案されたのがクサビ式締付金具である。同金具の登場により型枠の施工性と精度が一気に改善され、それまで仮設的感覚で見られていた型枠工事、そして型枠大工そのものが、工事管理の要となってきた。昭和32年ごろからは、内地木材の高騰もあってそれまで木製パネルに使用されてきた強度・耐水性ともに優れた合板が使われるようになった。当初はコンクリートの表面に硬化不良の状態が現れるなどの問題もあったが、幾度とない改良の結果、品質の向上につながっていく。
 昭和42年には「コンクリート型枠用合板(通称コンパネ)」の日本農林規格(JAS)が公布された。これ以降「型枠」といえば「コンパネ」と言われるようになり、コンパネは一気に全国に広がることになった。そして、見た目も美しい、精度の良い「化粧打ち放し型枠」の普及へとつながっていく。こうしたコンパネの普及に伴って、型枠工事の専門職いわゆる「型枠大工」が誕生する。明治時代末に型枠が導入されたころ、仕様書では、「型枠」は「仮枠」として、「仮設工事」にあった工事が、「型枠工事」として、現在では仮のものではなく、やりなおしの効かない本設工事として、それはミリ単位の精度が要求される仕事であり、構造・仕上げの一部を担う重要な地位となった。
 コンクリート工事における鉄筋工事との取り合いは、躯体性能を発揮させるうえで、相互の連携が重要であった。鉄筋のかぶり厚を守るためのスペーサーなど、小道具もいろいろと開発され、現在でも品質確保の重要なポイントとなっている。


 コンクリートの歴史は、もっと古い。ローマ人は、ヴェスビオス火山の麓で取れる火山灰と石灰、砕石を混ぜ合わせたものが水中で硬化し、強度を増すことを知って、伽藍や、橋や、水道橋などを造っていたようだ。 ローマの伽藍のドームは既に型枠を使用していた形跡があると言われていた。ローマのパンテオンは現在も鉄筋などの補強のないものとしては、世界最大のコンクリート製ドームであるローマ近郊の墓で、ローマン・コンクリートがむき出しになっている。現代のコンクリート建築とは対照的に、ローマではコンクリート壁をレンガなどで覆っていた。 ローマ帝国でのローマン・コンクリート は、生石灰、ポゾラン(「ポッツオーリの土」と呼ばれる火山灰)、骨材としての軽石から作られていた。ローマ建築に広く使われて建築史上の画期をなし、石やレンガに制限されない自由で斬新な設計の建築が可能となった。

 古代ローマ人にとってコンクリートは新たな革命的な材料だった。アーチやヴォ ールトやドームの形状にすると素早く固まって剛体になり、石やレンガで同様な構造を作ったときに問題となる内部の圧縮や引っ張りを気にする必要がなかった。最近の評価によると、ローマン・コンクリートは現代のポルトランドセメントを使ったコンクリートと比較しても、圧縮に対する強さは引けを取らない(約 200 kg/cm2)しかし、鉄筋が入っていないため、引っ張りに対する強さは遥かに低く、したがって使い方も異なる。現代のコンクリート構造はローマン・コンクリートのそれと 2 つの重要な点で異なる。第一に固まる前のコンクリートは流動的で均質であり、型に流し込むことができる。ローマン・コンクリートでは骨材として瓦礫を使うことが多く、手で積み重ねるようにして形成する必要があった。第二に鉄筋を入れることで引っ張りに対する強さが強化されているが、ローマン・コンクリートにはそれがなく、コンクリート自体の引っ張りへの強さだけに依存していた。

 ローマ建築ではコンクリートが多用されたため、今日も多くの建築物が残っている。ローマのカラカラ浴場などは、コンクリートの耐用寿命の長さを示している。古代ローマ人はローマ帝国中に同様のコンクリート建築を建設した。ローマ水道やローマ橋の多くは、コンクリートの構造を石で覆っており、同様の技法はコンクリート製ドームのあるパンテオンでも使われている。

 コンクリートの製法は約 13 世紀の間失われていたが、1756 年、イギリスの技術者ジョン・スミートンがコンクリートに水硬性石灰(骨材は小石やレンガの破片)を使うことを考案した。1824 年、ジョセフ・アスプディンがポルトランドセメントを発明し、1840 年代初めには実用化している。以上が通説だが、1670 年ごろ建設されたミディ運河でコンクリートが使われていることが判明している。

 近年、環境問題が重視されてきていることから、コンクリートの成分に再生素材を使うことが多くなっている。例えば石炭を燃焼する火力発電所がだすフライア ッシュなどである。これにより、採石量を減らすとともに産業廃棄物の埋め立て量も減るという効果がある。コンクリートの添加物は古代ローマや古代エジプトでも使われていた。彼らは火山灰を添加すると水によって固まる性質が生じることを発見した。また、ローマ人は馬の毛を混ぜると固まるときにひびが入りにくくなることや、血を混ぜると凍結に強くなることを知っていた。現代の研究者も、コンクリートになんらかの素材を添加することで、強度や電気伝導性を高くするなど、コンクリートの性質を改善する実験をおこなっている。

 中国の大地湾遺跡には、紀元前 3,000 年も前から同じような方法が使われていたと言われている。現代のセメントは、1824 年イギリスの J.Aspdin というタイル職人によ って発明されたもので、石灰石と粘土を加えて焼成したクリンカーを粉砕したものだ。まだまだ続けたいが(あと10倍くらい)、ここまでとしよう。


 ここでは、セメントの誕生に続いてコンクリートを作り出し、いろいろなものに応用されるが、コンクリートは圧縮する力には強いが、引っ張り力には弱いという性質があり、それを補うために鉄筋(引っ張り力に強い)コンクリート、いわゆる”RC”(Reinforced Concrete Construction)「鉄筋によって補強されたコンクリート」が誕生したことを理解頂ければ幸いです。

続いて、原価管理システム(Cost control system