my company history

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(いつでも工事中=途中かもしれない<m(__)m>)

会社の沿革にコメントを添えます。

1973年(昭和48年4月):福村章夫が、舞鶴市字吉坂285番地に於いて「型枠福村」を創業

1978年(昭和53年4月):建設業許可(大工・土木・建築)取得

1979年(昭和54年4月):福村建設株式会社設立(型枠工事、土木一式請負、鉄筋・足場・楊重工事を自社で施工)

1980年(昭和55年4月):レッカー事業部創設し5台を購入

1981年(昭和56年9月):創業者(福村章夫;38歳)死去、2代目(福村眞理子:27歳7ヶ月)が代表取締役に就任(福村正章:11歳10ヶ月)

※職人たちは父の性格についていけず、独立しようとしていた。又は他業種に転職しようとしていた。そんなことがあり、とある工事が最盛期でもあり1億円を投じてレッカーを5台購入し、その矢先の死でした。仕事を依頼してくれる業者も少なくなっており、土木一式下請工事の某元請は、最悪の支払い条件でもありその後、倒産。決算(3期)負債は、8千万円。そして信用不安で、殆どの方に倒産すると思われていた。(▶私は中学1年、ショックで学校にあまり行かなくなった。また校区外の親戚の住宅から中学校に通う。中学校2年3学期までは、勉強というものをした覚えがない。成績表に”1”が(*_*;、そこから3年卒業までには、”4”まで浮上させた。これが無ければ建築には進んでいない。父の生前は怖かった。川に捨てられたり、縁側から雪の上に放り投げられたり、ビールケースが部屋の中から窓ガラスをめいで飛んできたり、とにかく凄かった。舞鶴では、なんとかの3羽鴉とも言われていた。小学5年で不登校になったとき、倉庫の片付けを2日間やったが学校に行けるようになった。残念なのは、仕事のノウハウをなにも教えてくれなかったことだ。

1982年(昭和57年9月):レッカー事業廃止。土木建築一式請負規模縮小。

※信用不安から、地元である舞鶴地域内からの型枠仕事依頼が少なくなる。これがきっかけで、当時(片山専務)100㌔圏内の広い範囲で営業を行い、後にグローバルに信用を得ることになる。敦賀の松下、高浜文化会館・図書館等の大規模な型枠工事を㈱熊谷組様より受注し2年をかけ施工した。(▶高校(宮津高校工学部建築学科)春・夏・冬休み中は井手工務店でアルバイト 休憩がなく、親方がたまにアイスクリームを買いに出る そうすると今日は、休憩時間があるということ。その親方が言っていたことが今でも忘れません「わし等は、現場って色々なところに行くやろ、ひとつのところに居たくないから職人やってるんや」と。スラブ張で落下しそうになったり、地上30mほどの外部足場で作業中、首の上にでかい加工材が落ちてきたり、危ない橋も渡りましたが、今も、それを糧に生きています。嫌だったのは、挨拶しても職人さんたちは挨拶してくれないこと、そして”ボンボン”と言われること。悔しかったが、続けるということは良いことだ。建込もやらしてもらえ、締付も誰よりも早く出来るようになった。段取りとチームワークを学んだ。体力もついたので自信になった

1985年(昭和60年9月):リース(足場)事業部設置。土木一式工事の光明が差す。

1986年(昭和61年9月):型枠単価が高騰していく時期。

1989年(平成01年9月):フクムラ仮設設立(当初の資材は、その殆どを福村建設財政から購入)

1990年(平成02年9月):福村建設新社屋落成。型枠単価(北近畿5,000円。関東7,000円。)

1991年(平成03年9月):バブル崩壊

※大野建設㈱入社。営業から現場管理へ、飯野課長、それから新井常務(当時:所長)矢口さん(当時:所長)上司に恵まれ、勿論、社長や他の方にも恵まれ、色んな経験をさせて頂いた。この2年8か月に感謝!▶企業情報スタッフ紹介)同期の★くんも活躍している。大野建設㈱さんは、私の第2の故郷でもある。東京に車で行くときは、必ず、立ち寄っています(休み期間)また、大学同級生の阿波連も、何故か大野建設㈱さんで、特務室長(一級建築士)として活躍。奥野さんや黒澤さん金沢さんも、、、懐かしくHPを拝見させて頂きました。1993/11/25に全社で送別会をして頂いた。その時に、いつも現場で助けて頂いたおっちゃんが涙して”残念だ”と言ってくれて、人前で初めて大泣きした。もう感謝しかない。

1992年(平成04年9月):福知山支店設置

1993年(平成05年12月):取締役部長(福村正章)入社。型枠最高単価。反面、関西で建設ピークより仕事量が減少。

残念ながら、埼玉から実家へ、当時は、いやでいやでたまらなかった。帰る半年前に、当時の片山専務から、会社の先のことを考えられて、お話しを頂いた。片山さんは、会社、そして私の恩人なのだ。丁度、そのころ大野建設㈱では、所長と2人で幾つもの現場の管理をしていて、殆ど休みも無かった。また、初めて鉄骨の倉庫新築工事を予算組立から任され、職人さんたちと仲良く工事現場の管理が出来ていたころ。帰る時期は、勿論、その現場が完成した時だった。賞与も申し訳ないので辞退するかたちとなった。これもけじめである。家業で頑張るしかない。会社の雰囲気は、私が高校のときより変わった。言われたのは、「なんか監督さんみたい」そう、そう、その通り、現場監督ですからね、これまでは、、、

1996年(平成08年9月):最高売上(13億1千万)。年間建込㎡数も最高(248,000㎡)。阪神淡路震災

 (撮影は、2020/1/3 築29年 30年前初の現場管理)

型枠の単価推移と地方と都会との違いについて(型枠単価の内訳)▶大野建設で初めて監督として担当させて頂いた建物は小沼整形外科医院(熊谷市本石1-171)住宅併用のRC3F。この時の型枠単価は相場が7,000円(1991年関東)、所長と二人で名義人が忙しくて語ってくれないので型枠屋を新規に探した。交渉の末で6,400円。でも2年後には、S造基礎で3,600円まで下落(バブル崩壊3年後)。私が家業についた時(1993年12月関西北部)は、基礎でも何でも5,000円だった。最初に請け負った型枠単価はS造基礎で4,800円(1994年2月)片山さんが営業でよく言っていた「都会では、7,000円以上もあったろうが、地方では、5,000円が”天”だから値切らんといてなぁ」。1996年弊社にとっての仕事量ピークで平均4,800円。その後は、⤵

(設立~仕事量ピークの単価・売上推移)

1997年(平成09年9月):一般貨物自動車運送事業取得

当時の運送部門は、運送部ではなく、運転手その殆どが徹底的に外注(11人)だった。道路法で過積載の取締が厳しくなること(過積載ガイドライン)。同居していたフクムラ仮設㈱は足場リースの専門会社で、トラックで運送する場合は、一般貨物運送事業(緑〈青〉ナンバー:トラック協会)を取得する必要があった。会社の場所は市街化調整区域内にあり、かなり大変だったが、それより、当時のトラックは、4t車だけど2tも詰めないトラックばかり、荷台に鉄板や、仮装。車体の補強(沢山積めるようにしたもの)、それらトラックの積み荷は、1.7tにも満たない現状だった。そこにメスを入れて、全員社員とし、トラックを全て増トンの新車に買い替えた。勿論ユニック付き。これが営業ナンバーとしての自覚とプライドを持つきっかけとなった。(参考:トラック積荷制限

1999年(平成11年4月12日):代表取締役(福村正章:29歳5ヶ月)就任(3代目)

これまでに、数多くの人が辞めさせられたり、辞めたり、むろん私と合わない外注も離れていったりもした。就任直後は仮設にデューダするのもいれば、お前はまだまだや、とかも言われたが、そんなことはどうでもいいことで、私にとっての社長就任で最初の試練と言えば、片山専務が60歳で引退されることだった。取締役さんなので、株を持っておられ、今の時価で買ってくれというもの。直ぐに理解した。これまでは、業績も良かったので株は3倍くらいになっている。勿論、株式上場していないから個人での売買となる。買うのは私しかいないのだ。男気!あまり明るい思い出はないが、これだけは言い切る「仮設とは真逆。常に反対のことをする。」を念頭においた。

2000年(平成12年9月):原価管理システム導入(資材管理)

FCCSフォームワーク・コスト・コントロール・システム

2001年(平成13年9月):型枠工事等の価格が大きく下落。遅れて、北部ではマンション建設が続く。

2002年(平成14年9月):元請倒産で負債(1,800万円、430万円回収出来ず)を経験

2003年(平成15年9月):焼却場(野焼き)を撤去、マテリアルリサイクル、サーマルリサイクル検討

2004年(平成16年9月):構造用合板(無塗装)の購入を辞めて、塗装合板(黄色)購入のみとし、桟木においても4.0mは購入しないようにして行った。(整理し易さを追求)

2006年(平成18年9月):産業廃棄物収集運搬許可取得

2007年(平成19年9月):リーマンショック

2008年(平成20年9月):金額(2億1千万/58,000㎡/RC9F)小浜病院を契約する。塗装合板3×6、880円から、工事が終わるころ(一年間)には、1,800円近く高騰

2009年(平成21年9月):同業者の廃業・倒産が多くなる。

2010年(平成22年1月):レッカー倒壊による死亡事故(1月6日)

2010年(平成22年9月):低い価格競争。仕事の取り合い。基礎の型枠で、恐らく日本でも最低である㎡当たり1,234円で請け負った。(税務調査、赤字決算)

2011年(平成23年9月):赤字決算:2期連続

(別れ)フクムラ仮設がこれまで社屋に同居していたが、高浜に本社を移動する。▶当時は、母(仮設社長)と私(建設社長)が取締役を兼ねていた。「①片方の会社がだめになると共倒れするから」「②単純に高価な家賃を払うよりは安い貸事務所(改修)で」「③京都府ではなく、福井県の業者になりたいから」との理由で、あっちから離れていった。でも「①フクムラ仮設のために親会社として色々やってる」「②フクムラ仮設のために人材を集めるために自社ビルを2億かけ建設が建てた」「③今は、福井の業者だから別会社で京都のエリアをフォローしているらしい」おかしなことばっかり、私からしたら”裏切り”とも取れるが、そうは考えなかった。仮設とは真逆。常に反対のことをするから。

▶当時、「ワンコイン大工:建込単価が㎡当たり500円」という言葉が雑誌にも掲載され、型枠工事の低価格が萬栄していた。史上最低価格(建込㎡700円、脱型250円)の現場で、大工と解体は頑張ってものにしてくれた。「社長、1,000円あったら面白かった現場やった」そして1,000円になると「わしらは、なんでもかんでも1,000円か?わしらは1,000円大工か?」と2012年(平成24年9月):赤字決算:3期連続(3,000万円赤字)関西で生コンのストライキが起こる。※2003年~2012年にかけて、型枠屋の廃業・倒産・職人離れが集中していた時期だった。赤字決算を3年連続経験、5か年事業計画を立て、今後を見通す時期であった。日本型枠工事業協会近畿支部の会合に招かれ、社会保険未加入解消ガイドライン[平成29年3月迄に建設業者社会保険加入100%、5年後に出来ない建設業者は事実上排除される]ということを聞き、必ず、職人不足の時代が来ると確信する。

2013年(平成25年9月):福知山支店廃止。型枠単価引き上げ開始。同業者や躯体工事業者に社会保険加入促進指導。

私の方針は、自分だけが良くなるのではなく、周りの仲間(鉄筋・土工・鳶)そして同業者(型枠)と一緒に良くならないと(標準化→豊かになる)考えていた。おかげで、北部地域においては、弊社より先に社会保険加入の促進を実現する会社があった。それは、建設業許可証の更新(5年毎)が出来なくなるからという間違った解釈もあったようだ。弊社は従事者も多く、社会保険加入促進には5年を要した。だが、目標(損を取り返す)については、3年で達成することが出来た。この時は、3年の先しか見れない自分に情けなさを感じた。とあるコンサルタントより、「人は3年先しか読めないものです。個人の夢や野望が最終的な目標になるのです。それを3年ごとに区切り目標を持つことこそが本来である。」なるほど。参考:BATE(sony)vsVHS(victor)

2014年(平成26年9月):東北震災。復興工事優先により北近畿周辺は予定されていた工事が凍結。しかし一年間の現場数は120物件あった。

2015年(平成27年9月):福村建設従事者72名(徐々に社員化が進む)。北近畿全体で、近年では型枠工事が最も多かった年。

2016年(平成28年9月):近年最高売上9億2千5百万円(フクムラ仮設;20億7千5百万、グループ合算で30億※ピッタリ)。全国的にはホテル多数建設計画。マンション需要の高まり。その他、民間企業の設備投資の見通しも明るい。

2017年(平成29年9月):社員61名。協力従事者7名。100%社会保険加入達成。

日本には、評点(企業評価)のついている型枠業者は、4,853社(2017現在)(①神奈川363社、②埼玉342社、③大阪325社、④愛知323社、⑤東京287社)あり、個人事業主(手間請け)を合わせると約6,000社(の計算でいい)は存在する。参考:[会社という価値(Objective)][会社という価値(Davit Atkinson)] 型枠工事業者は、これほどには必要は無い。どりあえず2,000社でいい。参考:[会社という価値(purpose of ICT)] 整理が必要だ。誰も考えないことを実現させたい。社員数日本一:[株式会社フォービル]評点日本一:[株式会社小野組]は、関西圏内にある。弊社は関西圏内では、社員数2位、評点4位、ジェンダー〈91%:9%〉指標無し、この3つの日本一を目指している。関西圏内を制すことは日本一を意味する。(人口比率が圧倒的に高いのは沖縄150社。京都は兵庫の50%。大阪は兵庫の270%位、大阪は京都の540%。京都は団栗)

2018年(平成30年9月):年間売上目標76.4%

計画は、6憶円。目標は120%の仕事確保しないと社員に満足な所得を与えられない。

2019年(令和01年9月):社員55名。協力従事者7名で、年間売上目標110.9%。社員年収12%アップ。翌年もオリンピック後のリバウンド予想だったが、、

2020年(令和02年4月):コロナショック(序章に過ぎない)

(設立~ピーク~下落~リバウンド 売上推移)

Work style reform

ESG

SDGs

2021年(令和03年10月)

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